2018年




ーーー4/3−−− 寿司屋のコメント


 
 十数年も前のことであるが、東京で仕事の先輩と用事があった。昼時になると、知った寿司屋があるから、そこで昼飯にしようと先輩が言った。下町の小さな寿司屋だった。板前は、比較的若かった。さいきん代替わりしたような話が出た。

 他に一人いたので、人数は三名であった。先輩はちらし寿司を三人前注文した。品物が出てくると、私は例によってガツガツと食べた。早飯食いは、大学山岳部で身に付いた、いわば習い性である。

 私の食べ方を見て先輩は、「そんなに早く食べたら体に良くない。ちゃんと噛んで食べなさい」と言った。するとカウンターの向こうの板前が、「あっという間に食べて下さるのは、寿司が美味しいということでしょうから、作る方としては嬉しいですよ」と言った。

 店を出てから先輩は言った。「あの板前は、まだまだだな。誰が金を払うか見極めて、その客の機嫌を損ねるような事は言うもんじゃない」




ーーー4/10−−− 槙野氏逝く


 
大町市の木工家、槙野文平氏が亡くなられた。昨年の秋に、入院先の病院の公衆電話から、本人の声で食道癌にかかったことを知らされた。それからわずか7ヶ月で、お別れの時を迎えた。享年71、惜しまれる死である。

 友人の紹介で氏と知り合ったのは、私がこの地に越して来てしばらく経った頃だから、30年ほど前になる。当初はとりたてて親しいわけではなかったが、年月を重ねるうちに、交友が深まっていった。氏は、「大竹さんとは、友達になるまで、ずいぶん時間がかかった」と言った。

 氏は豪放磊落、野性味あふれる性格で、まことに押し出しの良い人物であった。一瞬で人の心を捉える人気者で、行く先々で独特のオーラを発散していた。その意味では、私とは正反対のキャラクターであった。氏を取り巻く人々の中にあって、私は場違いなほどの堅物であった。それだから面白いのだ、というようなことを、氏は時々口にした。

 私にとっての氏は、酒飲み友達だった。他にも行動を共にした局面はあったが、それらの事は記憶から薄れ、酒を酌み交わしたシーンばかりが思い出される。何十回も酒宴を設けたが、つまらなかったことは一度も無かった。取り立てて世のため人のために役立つような事は無かったが、とにかく共に飲んでいて楽しかった。

 話題は多岐に渡ったが、特に思い出話が面白かった。他人の思い出話などというのは、えてして退屈なものであるが、氏の話は何度同じものを聞かされても面白かった。

 子どもの頃の四万十川でのウナギ獲りの話、放浪時代に北海道網走で流氷の上を歩いた話、白洲正子さんとの出会いの話、彼女から紹介されて面会した白洲次郎氏や小林秀雄氏の話、能登の漁師の小屋を借り切っての牡蠣パーティーの話、ベニテングタケその他の幻覚物質に関わるちょっとヤバイ話、その他いろいろ、ジャンルを超えた豊富な話題のバリエーションは、聞いてて飽きることが無かった。

 本能の赴くままに生きているような人物で、女性遍歴も豊富だった。本人はほとんど口にしなかったが、伝え聞くところによると、すいぶん浮名を流したようである。それでも、50代後半になって30歳年下の女性と結婚をして、二人の子供を授かった。思いがけない展開に、周囲は驚いたものであった。

 病床に見舞ったとき、氏は近々訪れる死を覚悟していたようであった。そして、自分は好き放題をやって生きてきた男だから、これまでの人生に満足していると語った。ただ、まだ若い奥さんと、小さいお子さんを遺してしまうことだけが心残りだと、氏にしては珍しく殊勝な事を言った。

 私もいずれあの世に行くことになる。そのときは文平さん、またあなたと一杯やりたいものだ。しかしその時も、多くの綺麗どころに囲まれ、大酒とベニテングタケで有頂天になり、「バカヤロー、来るのが遅いぞ!」などと言うのかな。





ーーー4/17−−− 武士道


 以前、ある高齢の婦人と話をした。その方は、若い頃から剣道の達人で、県代表選手になったこともあるという。話題が剣道のことになると、言葉に熱を帯びた。

 人混みの中に暴漢が現れて、刃物を振り回しながら一人の女性を追いかけている。放っておいたらその女性は危ない。そんな状況を目前にした時、あなたならどうするか? と問われた。私が返答に窮していると、「その暴漢をやっつける自信が無いなら、放っておくのがよろしい」と言われた。

 蛮勇はいけないと言うのである。正義の味方の真似をしたところで、武術の心得が無ければ、刃物を持った相手に対抗できない。逆に、暴漢に切り付けられて傷を負えば、一生を棒に振るかも知れないし、家族も悲しむことになる。そういう無茶はすべきでない、と言う説であった。

 なるほど、剣道の達人というのは、敵に対する自らの力量を考慮するものなのだと思った。しかし、目の前で人が襲われようとしている時、冷静に判断をして、結果何もせず傍観するというのは、武道の精神には合っていても、人の道には反するようで、複雑な気がした。

 武士道という言葉を調べると、思いがけない解説に出会うことがある。武士道では、相手に勝つためなら卑怯な手も使うという説があった。理由は、正々堂々などと言っても、殺されたら意味が無いから、であった。何をしてでも、勝つことに執着するのが武士道であると。

 また、何度主君を変えたかが武士道における誇りだとの説もあった。腕を見込まれて、次々と違う主君に引き立てられていくのが武士の本懐だと。忠義面をして愚鈍な主君に仕え続けるのは、武士として恥ずべき事のようでもある。

 まあ、武士道と言っても、規範として定められているものは無く、古来様々な人が色々な説を述べてきて、それこそ180度違うようなこともあるらしい。ともあれ、現代人の道徳感とはいささか異なる部分もあり、ちょっと驚かされたりする。

 日本人はサムライが好きなようである。スポーツの分野では、ナショナルチームに「サムライ○○」という愛称を付けたりする。政治家などでも、サムライを口にする人が時々いる。しかしサムライの何たるかは、良く分からないとも言える。良く分からないサムライに憧れるのが、現代の日本人なのである。




ーーー4/24−−− 受刑者脱走


 愛媛県で受刑者が脱走し、二週間経っても見付からないそうである。そのニュースに接して、ある出来事を思い出した。

 もう二十年以上前になるか。父が穂高駅へ旧友を迎えに行った。旧制高校時代の友人で、しばしば父の話に上った人である。早くも高校生の時に、信州の農家から炭を仕入れ、東京で売ってちょっとした財をなしたというエピソードも聞いた。その後医者になり、病院を創設して理事長になったという、立志伝中の人物である。

 父が駅の待合室で列車を待っていると、一人の少年が現れて、「おじさん金をくれないか」と言った。制服のようなものを着ていて、ほとんど裸足だったという。父は「客を迎えに来ただけだから、財布を持っていない。金は無い」と答えた。少年は立ち去った。

  父が友人と共に我が家に戻った。私は、有明高原寮で脱走者が出たとの情報が、有線放送で流れたと話した。父は「駅で出会った少年がそれだ」と言った。そしてそのいきさつを、友人に話した。

 すると友人はこう言った。「そういうときは、家へ連れて帰り、風呂へ入れてやり、何か美味いものでも食べさせてやり、小遣い銭を与えて、元気に暮らせよ、と送り出してやるものだ」。

 私は、立志伝中の人物は違うものだと思った。





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